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*めっちゃ長いです。時間のある時にどうぞ。

噂のゆめにっきをプレイしました。
プレイ日記とか銘打ってますが今回しか書きません。
あ、加筆はするかもしれませんけどね。

ゆめにっきは有名なフリーゲームでして、おそらく知ってる人も多いことと思います。
これから書くのは考察のようなものです。
これからプレイする人、プレイ中の人、まだやってない人…。とにかくプレイした人で行きつくところまで行った、と感じた人以外は読まないことをおすすめします。
また私はこのゲームをプレイしてみることもおすすめします。
雰囲気は少し恐い(不気味?)ので、私みたいに寝れなくなるかもしれませんけど、慣れれば大丈夫です。
では、考察を書いていきたいと思います。



私がゆめにっきというゲームを知った理由は明確には覚えていません。
多分ネットサーフィンしていた時にたまたま見つけたんだと思います。
トラウマという言葉と一緒に覚えていて、それで興味を持ったのかと。
プレイするにあたり極力情報を避けました。これは私がゲームをする時の習慣です。
ただ、ゲームの性格上途中で完全に詰んでしまったので、エフェクトを信号、魔女、うんこヘアー以外集めた状態で攻略サイト(公認)を頼り、またそこでEDの存在を知りました。
またゆめにっきに関する考察もクリアしてから読みました。(といってもニコニコ大百科くらいですが)
そのため、本来存在しないさまざまな固有名詞はネットで多く流用されているものを使うと思います。

どこが考察? と思ったかもしれませんが、一応環境を伝えておきたかったのですよ。次からは本当に考察を書きます。
ED見てないのにこの文を読んでる人、引き返すなら今ですよ!


現実と夢の二重で窓付きは生活しているわけですが、窓付きはほとんど夢で生活することになります。現実では外にも出ず、出来ることはゲームと寝ること、夢日記をつけること、そして最後のアレだけです。
ここに現実と夢の逆転を感じました。本来夢で見たことを書きつける夢日記ですが、窓付きの場合ほとんど夢日記をつけるために夢を見ている状況です。
現実で外に出ようとすると首をふることから、窓付きは現実からは逃げたい、現実はあまり見たくない、あるいは現実には何らかの理由で出れない状況にあり、その代わりに夢を見ているのでしょう。
しかし夢で見るものは現実で見聞きしたことが反映されますから、彼女にとって必ずしも夢が居心地がいいものとは限りません。実際のところ夢の世界は不気味さや恐怖をプレイヤーに与えます(まぁこれに限ってはひとそれぞれですけど)。窓付きがこの世界をどう思っているかはわかりません。しかし様々なエフェクトを手に入れるうち段々夢の世界に魅かれていくでしょう。そしてその気持ちはプレイヤーと通じます。プレイヤーの多くは最初はたださまよっているだけで目的もなくつまらなく感じますが、最初にエフェクトを発見しした瞬間に目的めいたものを自覚してゲームを楽しんだのではないでしょうか? だからエフェクトやそれによってもたらされる夢の世界の些細な変化は夢の世界における楽しみであり、窓付きにとってもそうであると思います。
エフェクトがなんであるかと考えますと、窓付きにとっての願望(意識的な願望や潜在的な欲、現実では体験できない何か)というふうに私は思いました。箒に乗って空を飛ぶ、いろんな髪型をしてみたいというような分かりやすいものから、殺意といった意識の水面下での欲望などなど…。一見意味のわからないエフェクトも今の窓付きではなく過去(きっとドアの外へ出られた頃)のちょっとした願望ではないかと思うのです。例えば、幼少期にカエルと話してみたかったとか、暗くて恐い目にあった、早く自転車に乗れるようになりたい……明日はテストだから雨が降ってほしい、風邪を引きたい、雪降らないかなぁ……こんな感じで。
そして最後に窓付きは願望、楽しみであるエフェクトを捨てるわけですが、これはまた最後に話します。
夢の世界で窓付きにとって障害となるものはほとんどありませんが、鳥人間だけが障害となっています。半狂乱の面持ちでひたすらおっかけてくる鳥人間は窓付きにとっては恐怖であると思います。何しろ場合によっては楽しみである夢から覚めなければならないのですから。
狂っていない無害の鳥人間で尚且つ刺すことによって狂うものは、確か何人かいましたが、私の思う限りでは全員ベッドのある空間にいたのではないかと思います。ベッドのそばに常にいるもの…それは母でしょうか。まぁ母というのは考察を読んでかなりしっくりきたもので、そこに自分なりの理由付けをしただけなのですが。
ともかくそれが刺すことによって窓付きを拘束するものに変化する。というのは母との確執を感じます。刺すという行為は鳥人間に向けられた場合反抗の象徴であり、鳥人間が狂うというのは過剰な子供への制裁を象徴しているのか…ようするに虐待ですね。それだと外へ出たがらないというのが一見矛盾めいてますが、おそらく罰せられるのでしょう、赤の王様への扉が窓付きの部屋の扉と同じことにそういうものを感じます。強制起床というのは外に出られない窓付きにとってそうとう嫌なことでしょうから。
次に最初から狂っている鳥人間ですが、これは母とはまた別のだと思います。恐怖の対象に変わりないのですが、同時に恐怖の象徴でもあり、怒っている母の姿が数ある恐怖の代表として一種シンボル化されているのかな? と感じました。
最後にゼンマイみたいのが生えてる砂漠で踊っている鳥人間です。楽しそうに踊る鳥人間には近づけないというのが印象的でした。この鳥人間たちは決して狂わないので恐怖の対象とは違いますが、私はこれらが母以外の近親者であると思いました。母からは虐待を受けているわけですが、他の家族はしなかったのだと思います。もちろん何もしなかったのでしょう、虐待もせず、助けもしない。ただ楽しそうにしているが、自分は無視される存在。鳥人間の姿をしているのはそれが近親者の象徴にもなっているのではないか、と考えました。
鳥人間の話で軽く触れましたが、現実の部屋と同じ形をした扉は夢の世界に三つあったと思います。夢の部屋のもの、扉がたくさんある部屋のもの、赤の王様へと続くもの。前者二つは同じでは? と思うかもしれませんが、どちらの扉も開ける時は奥に向かって開くので意味があるのかなと感じました。(ただどっちにも開くだけなのかもしれませんが)
そこで私は現実の窓付きと夢の部屋から出た窓付きとは他者であるように思いました。記憶を共有するだけの二人の窓付きといったイメージでしょうか。性格の乖離はともかくジキルとハイドの関係に近いものです。本来の姿である現実の窓付きが楽しみである夢の世界の窓付きになる。ただそれが現実で夢日記をつけるために夢を見るようになり、生活がじょじょに逆転していく。まるで夢の窓付きが本来であるかのように…(ジキルは快楽の代行者としてハイドを作り出し、快楽にふけりますが、結果としてハイドにのっとられます。まぁ私的には単なるハイドの侵略ではないと思っていますが、ここで離すと長いし、わかりやすい例なだけなので割愛)。そこで二人の窓付きの境界が夢の部屋の扉だと思ったのです。ちょうどあの扉が鏡のように二人の窓付きを分かつものだと。どちらも奥に開く扉の意味を私はこう考えたわけです、夢の窓付きへの扉であるが、同時に現実の窓付きへの扉でもある。じゃあ夢のベランダと夢の部屋にいる窓付きはどうなの? と思われるかもしれません。それは私たちが夢で見る私たちと同じものです。だから赤い迷宮に登場する半透明の窓付きは、夢の窓付きに立場を奪われた、本来の夢の窓付き(私たちが普通夢で見るような私たち自身)ではないか、とも思います。
ではなぜ窓付きが現実と夢に二つの姿(自我)を持つようになったのか……安直ですが夢に対する人並み外れた思いがそうさせたのかもしれません。
そして最後のシーンです、夢の世界の窓付きにとっては楽しみ、現実の世界の窓付きにとっては願望であるエフェクトを捨て、現実で身を投げる。
私はエフェクトが卵の姿をすることからあれを捨てるとは考えにくいと思いました。おそらくあの一連のシーンは夢の窓付きが現実の窓付きを乗っ取る瞬間だと思います。二人の窓付きはたがいに同等であるようですが、夢の窓付きの存在は夢を見る現実の窓付きに徹底して依存しているという特徴があります。これは鏡に映る向こう側の自分が自分なしには存在しえないのと同じです(またジキルとハイドもそういう関係にありました)。
現実に面白みをなくし夢の世界に魅力を感じる窓付き(ここで言う窓付きは夢も現実もです)にとって、夢における自我が現実の自我に依存していることはとてもネックだったと思います。現実の窓付きなしに夢の窓付きだけを存在させる、いわば夢の住人になるような願望が生まれたのではないでしょうか。
だけどどうしたらできるのかは分からないし、そんなことができるかもわからない。そこで夢の窓付きは現実の窓付きとの関係をできるだけ薄めるべく、現実の窓付きの願望であるエフェクトを卵にして一回身から離した。現実との関係を断てば夢の窓付きがそれ自身で存在できると信じて目を覚まし、現実の窓付きは意を決して身を投げた。
そんなふうに私は考えます。窓付きは単に負の感情にまみれてではなく、まさに一生に一度の大きなかけとして大きな決心をして最後の行為を選んだ、と思います。だから身を投げた時、落下するのではなく飛びあがって降りたのでしょう。
果たしてそのかけは成功したのでしょうか。私は成功したと思います。EDでの血溜りの周りに現れる赤いやつ、あれは確か夢にいましたよね。だから成功しただろうというわけです、というか思いたい。そうなると夢の世界に点在する血溜りはひょっとすると…。

以上が私の考察です。
他の方々の多くの考察と同様に妄想全開でしたが、ゆめにっきというゲームは説明がなされてない分想像の幅が広がる性格をもっていますし、そこにも面白みがあると改めて感じました。
作品の絵、音楽、設定、システム…それぞれが互いを引き立て全体の雰囲気を作っていると感じましたし、またプレイヤーの能動性が極限まで活かされているという性格も感じました。だからゲームでなくては表現できないという必然性が、ゆめにっきにはあると思います。それに引き換え最近のゲームは……というと説教臭くなるのでやめて置きます(笑)

ちなみに私はチキンハートのせいでほうちょうを手に握っても刺すことは一度もなかったです。だからピクシプで窓付きを検索した時、血と包丁のモチーフが非常に多いことにびっくりしました。こういうプレイヤーによって印象が全然違うのもゆめにっきのみならずゲーム(RPG)の良いところだと思います。
あ、なので赤の王様はニコニコで見ただけで自分では体験したないです。ウボァは攻略サイトを見て故意に出しました。
私的なトラウマナンバー1はデパートのエスカレーターを下ったとこですかね。曲とか人とかいちいち恐かったです。笛の部屋の人とか、トクト君は好きですが。あとは寝違えた時もかなりビビりました。
逆に一番好きなところは魔女になって空を飛ぶところかな。あとテレビの砂嵐みたいなのの先にあるファミコン世界の音楽がすごく好きです。

この辺で終了します。尋常じゃなく長い文読んでくださった方にはもうなんとお礼したらいいか…。
ここがわかりにくい、説明してくれ、とかありましたらコメントでどうぞ。

ではでは。


追記:
ああ、そうだ忘れてた。火星イベントのことを書こうと思っていたのに。
あそこへ行くには確かベッドの中に入る必要があったと思います。いうまでもなくそれは寝ることの象徴ですが、上に記した私の見解ですと夢の窓付きがまた夢を見るというような事態が発生すると思います。
それが意味するところは……これはいろいろ考えたのですが難しいですね。夢の窓付きが見る夢なのだから、現実の窓付きとは全く関係のないシーンなのかもしれない。だから、あそこだけストーリーめいたものがはっきりとあるのかな。とか思ったりしています。そしてもっとも奥深くにいる火星さんと呼ばれるひと。私はやってないのですが、刺すと傷が残るらしいですね、それもここだけの現象だとか。やっぱり夢の世界とは一線を画すイメージがあります。自分の成したことがはっきりと結果として残る。これは現実に通ずるものがあります。それにしては世界観がぶっとんでる。何か想像もつかないような全くの別次元にいるのでは……?
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この夏にやりたかったRPGをたくさんやろう、と思ってたんですが忙しさと経済難のせいでドラクエ6とFF9しかできなかったよ。

昨日から今日にかけての深夜にFF9を全クリしました。
うん、なかなかよかったよ。作られた存在(=被造物、人造人間)を介しての「命」のテーマは今までにもたくさんあるけど、文学にも負けず劣らずだったと思う。ゲームという時点で差別されがちだけどRPGは小説並みに人生を豊かにすると思うんだ。

で、ラスボス戦がなかなか劇的だった。物語を伝える媒体としてのRPGの可能性を感じたぜ。この時初めて感じたわけではないですけどね。
では詳しく…
敵の攻撃で味方全体にいろんな状態異常(即死を含む)をもたらすのがあるんだけど、4人いる仲間のうち3人が死の宣告(一定時間後に死ぬ)になってしまったんだ。FFやってる人なら分かると思うけど、その3人にはすでに命令済みだったので処置する方法もとれなくて残りの一人が頑張らなきゃならないっていう状態になってしまった。しかし、残りの一人に目をやるとまさかの石化状態!(戦闘不能とほとんど同じ)宣告通り3人が死んでしまい、一人は石化、この状況だと戦える人が一人もいないのでゲームオーバーになります。「終わった」っと思ったら死んだはずの3人が復活。「あ、リレイズ(死んでもHP1で復活する)かけてたんだよかった~」と喜んだのもつかの間、敵さんの全体攻撃で無残に3人は再び死亡…。「こんどこそ終わった…」と思ってPSPを床に置いたけど、何故かスムースにゲームオーバーの画面に移行しない。「ん?」と思ったら『転生の炎』の文字とともにフェニックスが召喚されて、死んだ3人が全回復で再び蘇生! 私はRPGやる時はクリアするまで攻略サイトをみない性質だからフェニックスの効果とか発動条件とか知らなかったのも相まって、かなり感動したんだ。しかも召喚ムービーがかっこよくて心を盛り上げてくれるんだな、これが。そのあとで見事勝利を収めたわけです。
(かなり詳しく説明したつもりだけど、FF知らないとチンプンカンプンかも知れません。申し訳ない)

今思い返すとこれはなかなか凄いことだぞ、と思うんですよ。
物語を伝えるの媒体としてRPG以外のものを考えると、本、映画、ドラマ、マンガ、アニメ……などがあげられると思いますが、それらの物語は本なら一字一句、映像なら全てのシーン、が全く同じように読者、視聴者へと示されます(≠伝わる)。捉え方は人それぞれだし、推理小説で後のページを先に見ちゃう人もいるんですけど、それでも与えられたものは明らかに等しいのです。
でもRPG(あるいはその他のストーリー性のあるゲーム)は違うんですよ。それは選択肢によって別ルートがあるだとかそういうこととは違います。これもゲームだからこそなせる技の一つではありますが、めんどくさいにしろ全てのプレイヤーは全てのルートを遊ぶ権利を等しく与えられているわけですから。私が言いたいのは上記のラスボス戦のようなことです。ある程度ランダム性を含む戦闘のようなシーンは物語の一部として、プレイヤーに示されますが、それは等しくはないのですよ。*1
これが物語を伝える媒体としてのRPGの一つの魅力だと思ったわけです。
私のように劇的な勝利を収めた人、苦戦した人、レベル上げをしてから挑み楽勝だった人、初見で倒した人、何回も負けた人、攻略法を見て万全の準備をして挑んだ人、攻略法は見なかった人、それぞれがそれぞれ違う物語をプレイするはずです。この差異は、本や映画における“捉え方”の差異とは全く違う性質を持っています。捉えるには対象が必要不可欠で本や映画における対象は常に不変です。しかしゲームの場合、捉える対象そのものが変化する。*2
話がややこしいのでまとめますが、結論としては、このプレイヤーによって(あるいは、依って)物語そのものが変化する、というのがRPGのいいところだ! ということです。

「いや自明だろ、何を今更…」って思う人もいるかと思います。
自分としても自明ではありました。RPGは人によって物語が違うから楽しい、っていうのはずっと前から漠然と思っていましたので。
しかしまぁ、物語が違う、異なるとはどういう意味なのか、“捉え方”とはどこが違うのか、そういう深い思考はしてこなかったので改めてって感じですかね。じゃあその違いのどこがいいのか? というと他の物語媒体との差異になるから、という答えくらいで、絶対的(相対との反対の意での)なよさはまだ考えつきません、残念ですが…。いつか答えが出ればと思います。
だからいかにもRPGは映画や本より優れているというような感じを受けたかもしれませんが、それは横並びの差異でしかないです。別に優劣をつけたいのではなく、RPG独特の表現・特徴を書いただけ。最近は映画のようなRPGっていう褒め言葉があるけどあれはおかしいよね? っていうふうに私は思います。

長い文読んでくださってありがとうございます。
下に突っ込みを予想しての補足を入れときました、役に立てば幸いです。
ではでは。



*1:厳密にいえば不確定とはいっても限られた確率の中のできごとなので、そういう意味では等しいのかもしれませんが、あまりに膨大な確率の上の現象なので等しくないといって差し支えないと考えます。
*2:変化するといっても、例えば戦闘シーンならば戦闘シーンそのものは等しく与えられているのであって、等しくないのは(変化しているのは)プレイヤーの戦闘に対する姿勢(≒捉えた方)だ。と考える方もいるかもしれません。が、私が思うには仮にそれが捉え方だとしても捉え方によって生じた結果が物語の中に具体的に表れ(物語が変化し)、そしてまたその結果を捉える、というプロセスはおそらくゲームの中にしか現れない現象ではないかと思います
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