since2010.8.5
この夏にやりたかったRPGをたくさんやろう、と思ってたんですが忙しさと経済難のせいでドラクエ6とFF9しかできなかったよ。
昨日から今日にかけての深夜にFF9を全クリしました。
うん、なかなかよかったよ。作られた存在(=被造物、人造人間)を介しての「命」のテーマは今までにもたくさんあるけど、文学にも負けず劣らずだったと思う。ゲームという時点で差別されがちだけどRPGは小説並みに人生を豊かにすると思うんだ。
で、ラスボス戦がなかなか劇的だった。物語を伝える媒体としてのRPGの可能性を感じたぜ。この時初めて感じたわけではないですけどね。
では詳しく…
敵の攻撃で味方全体にいろんな状態異常(即死を含む)をもたらすのがあるんだけど、4人いる仲間のうち3人が死の宣告(一定時間後に死ぬ)になってしまったんだ。FFやってる人なら分かると思うけど、その3人にはすでに命令済みだったので処置する方法もとれなくて残りの一人が頑張らなきゃならないっていう状態になってしまった。しかし、残りの一人に目をやるとまさかの石化状態!(戦闘不能とほとんど同じ)宣告通り3人が死んでしまい、一人は石化、この状況だと戦える人が一人もいないのでゲームオーバーになります。「終わった」っと思ったら死んだはずの3人が復活。「あ、リレイズ(死んでもHP1で復活する)かけてたんだよかった~」と喜んだのもつかの間、敵さんの全体攻撃で無残に3人は再び死亡…。「こんどこそ終わった…」と思ってPSPを床に置いたけど、何故かスムースにゲームオーバーの画面に移行しない。「ん?」と思ったら『転生の炎』の文字とともにフェニックスが召喚されて、死んだ3人が全回復で再び蘇生! 私はRPGやる時はクリアするまで攻略サイトをみない性質だからフェニックスの効果とか発動条件とか知らなかったのも相まって、かなり感動したんだ。しかも召喚ムービーがかっこよくて心を盛り上げてくれるんだな、これが。そのあとで見事勝利を収めたわけです。
(かなり詳しく説明したつもりだけど、FF知らないとチンプンカンプンかも知れません。申し訳ない)
今思い返すとこれはなかなか凄いことだぞ、と思うんですよ。
物語を伝えるの媒体としてRPG以外のものを考えると、本、映画、ドラマ、マンガ、アニメ……などがあげられると思いますが、それらの物語は本なら一字一句、映像なら全てのシーン、が全く同じように読者、視聴者へと示されます(≠伝わる)。捉え方は人それぞれだし、推理小説で後のページを先に見ちゃう人もいるんですけど、それでも与えられたものは明らかに等しいのです。
でもRPG(あるいはその他のストーリー性のあるゲーム)は違うんですよ。それは選択肢によって別ルートがあるだとかそういうこととは違います。これもゲームだからこそなせる技の一つではありますが、めんどくさいにしろ全てのプレイヤーは全てのルートを遊ぶ権利を等しく与えられているわけですから。私が言いたいのは上記のラスボス戦のようなことです。ある程度ランダム性を含む戦闘のようなシーンは物語の一部として、プレイヤーに示されますが、それは等しくはないのですよ。*1
これが物語を伝える媒体としてのRPGの一つの魅力だと思ったわけです。
私のように劇的な勝利を収めた人、苦戦した人、レベル上げをしてから挑み楽勝だった人、初見で倒した人、何回も負けた人、攻略法を見て万全の準備をして挑んだ人、攻略法は見なかった人、それぞれがそれぞれ違う物語をプレイするはずです。この差異は、本や映画における“捉え方”の差異とは全く違う性質を持っています。捉えるには対象が必要不可欠で本や映画における対象は常に不変です。しかしゲームの場合、捉える対象そのものが変化する。*2
話がややこしいのでまとめますが、結論としては、このプレイヤーによって(あるいは、依って)物語そのものが変化する、というのがRPGのいいところだ! ということです。
「いや自明だろ、何を今更…」って思う人もいるかと思います。
自分としても自明ではありました。RPGは人によって物語が違うから楽しい、っていうのはずっと前から漠然と思っていましたので。
しかしまぁ、物語が違う、異なるとはどういう意味なのか、“捉え方”とはどこが違うのか、そういう深い思考はしてこなかったので改めてって感じですかね。じゃあその違いのどこがいいのか? というと他の物語媒体との差異になるから、という答えくらいで、絶対的(相対との反対の意での)なよさはまだ考えつきません、残念ですが…。いつか答えが出ればと思います。
だからいかにもRPGは映画や本より優れているというような感じを受けたかもしれませんが、それは横並びの差異でしかないです。別に優劣をつけたいのではなく、RPG独特の表現・特徴を書いただけ。最近は映画のようなRPGっていう褒め言葉があるけどあれはおかしいよね? っていうふうに私は思います。
長い文読んでくださってありがとうございます。
下に突っ込みを予想しての補足を入れときました、役に立てば幸いです。
ではでは。
*1:厳密にいえば不確定とはいっても限られた確率の中のできごとなので、そういう意味では等しいのかもしれませんが、あまりに膨大な確率の上の現象なので等しくないといって差し支えないと考えます。
*2:変化するといっても、例えば戦闘シーンならば戦闘シーンそのものは等しく与えられているのであって、等しくないのは(変化しているのは)プレイヤーの戦闘に対する姿勢(≒捉えた方)だ。と考える方もいるかもしれません。が、私が思うには仮にそれが捉え方だとしても捉え方によって生じた結果が物語の中に具体的に表れ(物語が変化し)、そしてまたその結果を捉える、というプロセスはおそらくゲームの中にしか現れない現象ではないかと思います
昨日から今日にかけての深夜にFF9を全クリしました。
うん、なかなかよかったよ。作られた存在(=被造物、人造人間)を介しての「命」のテーマは今までにもたくさんあるけど、文学にも負けず劣らずだったと思う。ゲームという時点で差別されがちだけどRPGは小説並みに人生を豊かにすると思うんだ。
で、ラスボス戦がなかなか劇的だった。物語を伝える媒体としてのRPGの可能性を感じたぜ。この時初めて感じたわけではないですけどね。
では詳しく…
敵の攻撃で味方全体にいろんな状態異常(即死を含む)をもたらすのがあるんだけど、4人いる仲間のうち3人が死の宣告(一定時間後に死ぬ)になってしまったんだ。FFやってる人なら分かると思うけど、その3人にはすでに命令済みだったので処置する方法もとれなくて残りの一人が頑張らなきゃならないっていう状態になってしまった。しかし、残りの一人に目をやるとまさかの石化状態!(戦闘不能とほとんど同じ)宣告通り3人が死んでしまい、一人は石化、この状況だと戦える人が一人もいないのでゲームオーバーになります。「終わった」っと思ったら死んだはずの3人が復活。「あ、リレイズ(死んでもHP1で復活する)かけてたんだよかった~」と喜んだのもつかの間、敵さんの全体攻撃で無残に3人は再び死亡…。「こんどこそ終わった…」と思ってPSPを床に置いたけど、何故かスムースにゲームオーバーの画面に移行しない。「ん?」と思ったら『転生の炎』の文字とともにフェニックスが召喚されて、死んだ3人が全回復で再び蘇生! 私はRPGやる時はクリアするまで攻略サイトをみない性質だからフェニックスの効果とか発動条件とか知らなかったのも相まって、かなり感動したんだ。しかも召喚ムービーがかっこよくて心を盛り上げてくれるんだな、これが。そのあとで見事勝利を収めたわけです。
(かなり詳しく説明したつもりだけど、FF知らないとチンプンカンプンかも知れません。申し訳ない)
今思い返すとこれはなかなか凄いことだぞ、と思うんですよ。
物語を伝えるの媒体としてRPG以外のものを考えると、本、映画、ドラマ、マンガ、アニメ……などがあげられると思いますが、それらの物語は本なら一字一句、映像なら全てのシーン、が全く同じように読者、視聴者へと示されます(≠伝わる)。捉え方は人それぞれだし、推理小説で後のページを先に見ちゃう人もいるんですけど、それでも与えられたものは明らかに等しいのです。
でもRPG(あるいはその他のストーリー性のあるゲーム)は違うんですよ。それは選択肢によって別ルートがあるだとかそういうこととは違います。これもゲームだからこそなせる技の一つではありますが、めんどくさいにしろ全てのプレイヤーは全てのルートを遊ぶ権利を等しく与えられているわけですから。私が言いたいのは上記のラスボス戦のようなことです。ある程度ランダム性を含む戦闘のようなシーンは物語の一部として、プレイヤーに示されますが、それは等しくはないのですよ。*1
これが物語を伝える媒体としてのRPGの一つの魅力だと思ったわけです。
私のように劇的な勝利を収めた人、苦戦した人、レベル上げをしてから挑み楽勝だった人、初見で倒した人、何回も負けた人、攻略法を見て万全の準備をして挑んだ人、攻略法は見なかった人、それぞれがそれぞれ違う物語をプレイするはずです。この差異は、本や映画における“捉え方”の差異とは全く違う性質を持っています。捉えるには対象が必要不可欠で本や映画における対象は常に不変です。しかしゲームの場合、捉える対象そのものが変化する。*2
話がややこしいのでまとめますが、結論としては、このプレイヤーによって(あるいは、依って)物語そのものが変化する、というのがRPGのいいところだ! ということです。
「いや自明だろ、何を今更…」って思う人もいるかと思います。
自分としても自明ではありました。RPGは人によって物語が違うから楽しい、っていうのはずっと前から漠然と思っていましたので。
しかしまぁ、物語が違う、異なるとはどういう意味なのか、“捉え方”とはどこが違うのか、そういう深い思考はしてこなかったので改めてって感じですかね。じゃあその違いのどこがいいのか? というと他の物語媒体との差異になるから、という答えくらいで、絶対的(相対との反対の意での)なよさはまだ考えつきません、残念ですが…。いつか答えが出ればと思います。
だからいかにもRPGは映画や本より優れているというような感じを受けたかもしれませんが、それは横並びの差異でしかないです。別に優劣をつけたいのではなく、RPG独特の表現・特徴を書いただけ。最近は映画のようなRPGっていう褒め言葉があるけどあれはおかしいよね? っていうふうに私は思います。
長い文読んでくださってありがとうございます。
下に突っ込みを予想しての補足を入れときました、役に立てば幸いです。
ではでは。
*1:厳密にいえば不確定とはいっても限られた確率の中のできごとなので、そういう意味では等しいのかもしれませんが、あまりに膨大な確率の上の現象なので等しくないといって差し支えないと考えます。
*2:変化するといっても、例えば戦闘シーンならば戦闘シーンそのものは等しく与えられているのであって、等しくないのは(変化しているのは)プレイヤーの戦闘に対する姿勢(≒捉えた方)だ。と考える方もいるかもしれません。が、私が思うには仮にそれが捉え方だとしても捉え方によって生じた結果が物語の中に具体的に表れ(物語が変化し)、そしてまたその結果を捉える、というプロセスはおそらくゲームの中にしか現れない現象ではないかと思います
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部屋の掃除に丸二日かかるとか終わってるよね。
でも元が汚くないと掃除した気にならないのでこまめにはしないんだよ。決して面倒くさいとかそういうことではない…はず。
今回は世界一受けたい授業で目にしたものを書こうと思っているのですが、「土曜日じゃないか、なんで今更…?」と思った人は、私が掃除の話をした理由を考えればいいと思います。
確か芸術品の修復の話でした。
世界遺産レベルの絵画(壁画)の修復ではベタ塗りせずに、何本も線を引く手段で色をつけて修復するのは何故か? という問題があったのですよ。答えは「修復には手を加えすぎてはいけないから、必要最低限のことしかしないと世界規約で決まってる」(ベタ塗りだと元の作品を上塗りする感覚があるんだと思われます)だったのです。
ゲストの皆様方は相変わらずのテンプレリアクション「なるほど~」「へぇ~」とかいいながら少しのけ反る、を見せてくれましたが、私としては「むむ…」って感じでした。
多分この正解を見てとくに違和感なく「なるほどねー」って思った方は西洋的な芸術感覚を持っているんだと思います。逆にちょっとした違和感を感じた方は日本的な芸術感覚を持っているんじゃないかと思います。もちろんどちらが良いとかそういうのはないです。日本人なのに西洋的感覚っていうのは十分にあり得る話なので。あ、あくまで推測ですからちげーよって人ももちろんいると思います。その時は申し訳ない。
そもそも西洋における建築は石でできていますからその作品の寿命はかなり長いです。逆に日本の建築の基本は木ですから例外はあれど腐るので作品の寿命は短い。そうなってくると作品のオリジナリティーあるいは価値というものが作品の中のどの部分に置かれるかということが推測できるかと思います。
西洋の場合、長寿命の作品を作れるわけですから永遠を求め、また作品はそれ自体の素材にオリジナリティーが置かれます。だから彼らはボロボロになったパルテノン神殿も、コッロセウムも修復はしても完全にもとには戻しません。対して日本の場合、建築は短命なので作品の素材には価値を置くことはできません。ですから彼らは古くなってきた神社などを改築することに抵抗を覚えません。例えば古くなってきた神社を完全取り壊し、違う場所に同じ建物を建てるという遷宮の概念もここからきています。つまり日本人は作品のオリジナリティーを意匠・デザインに求めているといえます。また余談ですが日本独特のはかなさだとかの美意識もこういうもろいう建築に生きたことがゆえんなのかな? とも思います。
だから「作品の素材を超えて修復してはならない」というルールを世界基準にするのはどうなの? というふうに私は思ったわけです。実際日本がこのルールに批准しているかどうかは知りませんが、まぁこの話はルールに対する意識の話なので関係ない…はず。
世界基準が西洋基準であることはボーダーレスを謳う現代においてもよくありますから、ちょっと気になったぜ程度の話でした。
もっともらしいこと言ってそうだけど芸術学においては基本の「き」みたいなものです。ただ、得た知識がたまたまテレビを見ていて役に立ったたりすると嬉しいよね(何
あ、日本美術だからといってなんでも作った当時の姿に戻したがるかと言えばそんなことは全くないです。色の剥げた仏像や、また色落ちした源氏物語絵巻を見ても別に元の状態に戻そうとせず、そこに時の無情さや、作品のはかなさを感じる場合もありますからね。おそらく西洋の場合もまた然り。あくまで一般的に、今回においては特に建築に於いてはって感じです。
ではでは。
追記:
書くたびにカテゴリーが増えていくのは仕様…のはず。
でも元が汚くないと掃除した気にならないのでこまめにはしないんだよ。決して面倒くさいとかそういうことではない…はず。
今回は世界一受けたい授業で目にしたものを書こうと思っているのですが、「土曜日じゃないか、なんで今更…?」と思った人は、私が掃除の話をした理由を考えればいいと思います。
確か芸術品の修復の話でした。
世界遺産レベルの絵画(壁画)の修復ではベタ塗りせずに、何本も線を引く手段で色をつけて修復するのは何故か? という問題があったのですよ。答えは「修復には手を加えすぎてはいけないから、必要最低限のことしかしないと世界規約で決まってる」(ベタ塗りだと元の作品を上塗りする感覚があるんだと思われます)だったのです。
ゲストの皆様方は相変わらずのテンプレリアクション「なるほど~」「へぇ~」とかいいながら少しのけ反る、を見せてくれましたが、私としては「むむ…」って感じでした。
多分この正解を見てとくに違和感なく「なるほどねー」って思った方は西洋的な芸術感覚を持っているんだと思います。逆にちょっとした違和感を感じた方は日本的な芸術感覚を持っているんじゃないかと思います。もちろんどちらが良いとかそういうのはないです。日本人なのに西洋的感覚っていうのは十分にあり得る話なので。あ、あくまで推測ですからちげーよって人ももちろんいると思います。その時は申し訳ない。
そもそも西洋における建築は石でできていますからその作品の寿命はかなり長いです。逆に日本の建築の基本は木ですから例外はあれど腐るので作品の寿命は短い。そうなってくると作品のオリジナリティーあるいは価値というものが作品の中のどの部分に置かれるかということが推測できるかと思います。
西洋の場合、長寿命の作品を作れるわけですから永遠を求め、また作品はそれ自体の素材にオリジナリティーが置かれます。だから彼らはボロボロになったパルテノン神殿も、コッロセウムも修復はしても完全にもとには戻しません。対して日本の場合、建築は短命なので作品の素材には価値を置くことはできません。ですから彼らは古くなってきた神社などを改築することに抵抗を覚えません。例えば古くなってきた神社を完全取り壊し、違う場所に同じ建物を建てるという遷宮の概念もここからきています。つまり日本人は作品のオリジナリティーを意匠・デザインに求めているといえます。また余談ですが日本独特のはかなさだとかの美意識もこういうもろいう建築に生きたことがゆえんなのかな? とも思います。
だから「作品の素材を超えて修復してはならない」というルールを世界基準にするのはどうなの? というふうに私は思ったわけです。実際日本がこのルールに批准しているかどうかは知りませんが、まぁこの話はルールに対する意識の話なので関係ない…はず。
世界基準が西洋基準であることはボーダーレスを謳う現代においてもよくありますから、ちょっと気になったぜ程度の話でした。
もっともらしいこと言ってそうだけど芸術学においては基本の「き」みたいなものです。ただ、得た知識がたまたまテレビを見ていて役に立ったたりすると嬉しいよね(何
あ、日本美術だからといってなんでも作った当時の姿に戻したがるかと言えばそんなことは全くないです。色の剥げた仏像や、また色落ちした源氏物語絵巻を見ても別に元の状態に戻そうとせず、そこに時の無情さや、作品のはかなさを感じる場合もありますからね。おそらく西洋の場合もまた然り。あくまで一般的に、今回においては特に建築に於いてはって感じです。
ではでは。
追記:
書くたびにカテゴリーが増えていくのは仕様…のはず。
「どうして哲学を学ぶの?」
「哲学なんてやってどうするの?」
「将来の役にたたないよね」
大学で哲学(正確には美学)を学ぼうを決めたその瞬間から親戚、先生、友人あらゆる人からよく言われた、そして言われている言葉です。人の勝手でしょとは思いつつも私なりに考えはあります。
そもそも大学に行くに当たって就職を念頭に置かなくちゃならないなんていう決まりはないので質問自体が愚問だぞ? と思うわけです。
これは実際に大学に入学して気づいたことですが、なんとなく入学した人、都会に出たくて入学した人、就職に有利だから入学した人の多いこと多いこと。彼らが常々口にするのはいかに楽な授業を選択し、いかに上手く授業をサボり、そして余った時間でどれだけ多く遊ぶか、ということです。テスト前なると突然教室が混雑し、そして後の方の席が騒がしくなり、ノートのコピーを催促する輩が増えてくる。これも彼らが主な原因だろうと思います。こういう人たちは高校4年生気分なんだろうなぁ、と感じる日々。
何のために大学に行くかっていうのはまぁ実際には難しい問題で、特に現代は若者が夢を失いがちらしいので仕方のないことかもしれませんが、大概の人が親に大金払わせていながら授業をサボることばかり考えているのは残念だなぁ、と。第一高校の時点で興味を持てるものが一つもないってことはないと思うんです。いやこれも理想なんですけど、実際18年近く生きて何にも興味ないなんて悲しすぎると思いませんかね。
で、興味のあるものがあればそれについての大学に入る、と。ただし一方で自分の興味のあることを大学に入り深く勉強することで、一体将来何になるのか? という大学=就職予備校的なイメージによってこの興味関心は薄れ、濁り結局は興味のあることがない、ということもあり得そう。
私が一番残念に思うのはこの大学=就職予備校のイメージです。
実際学者にでもならない限り、人生でここまで好きなことに対して学び通せるっていう機会は大学が最後なんですよ、多分。そんな貴重な時間を就職という社会生活上ほぼ必然的に起こるイベントのために潰してしまうのは実にもったいない。実際削る必要性はあります。ただ近年は削りすぎでは、とも思います。
なりたくもない職業の資格を就職に有利そうという理由のために時間を削りに削り、大卒のレッテルのためにとりあえず授業にだけは出て寝る。嗚呼なんてもったいないことかー。と思うわけですよ。
哲学美学? えぇ就職では不利と言われてますよ。でも私はこれが学びたいことなんです。私には学者以外の夢がありますから社会にでなきゃいけないです。だから人生最後に自分のやりたい学問を夢中になって学ぶんです。
まぁ実際には私は就職を見据えての選択なんですけどね。私が哲学美学を学ぶのはwantであって同時にmustなんですよ。いつかドラマで「mustじゃないの、wantなの(キリッ」なんていうキャリアウーマンのセリフがありましたが、私にしてみればお笑い草なんだよ!
私みたいなケースは少ないと思いますけど、人生最後の学びが主役の場所だもの、wantで動いたっていいじゃぁないか。これが私の主張であります。
でも実はこうやって自身の一種快楽を追求した私が就活で上手くいかず、適当に大学に通いつつもしっかり資格をとってる人が就活で上手くいくっていうのはあるかもしれない、いやむしろそっちの方が多いかも? その時彼らは私を笑うでしょうけど、私も彼らを笑うのですよん。
きっと泣きながら(;ω;)<君たちは勉強という快楽を未経験なのさ~
あ、こんなこと書くと勘違いされそうですから一応断っておきますが、私とて二日酔いで授業に出れないこともあったし、授業中寝てしまうこともあります。別に友人の誘いを断り続け一人もくもくと机に向かっているわけでもないです。
なんたって青春を本当の意味で謳歌できるのもまた大学までですから、私はそれも無駄にはしないようにしたいのです。
欲張り? ここまで学問と青春は大学までだ、と言っておきながら私の座右の銘は「一生勉強一生青春」(みつお)ですから仕方ない。ただ本当に他の何にもとらわれずに勉強、青春に励めるのはきっと大学までだと思うのですよ。今しかできないことを!
ではでは、この辺で。
「哲学なんてやってどうするの?」
「将来の役にたたないよね」
大学で哲学(正確には美学)を学ぼうを決めたその瞬間から親戚、先生、友人あらゆる人からよく言われた、そして言われている言葉です。人の勝手でしょとは思いつつも私なりに考えはあります。
そもそも大学に行くに当たって就職を念頭に置かなくちゃならないなんていう決まりはないので質問自体が愚問だぞ? と思うわけです。
これは実際に大学に入学して気づいたことですが、なんとなく入学した人、都会に出たくて入学した人、就職に有利だから入学した人の多いこと多いこと。彼らが常々口にするのはいかに楽な授業を選択し、いかに上手く授業をサボり、そして余った時間でどれだけ多く遊ぶか、ということです。テスト前なると突然教室が混雑し、そして後の方の席が騒がしくなり、ノートのコピーを催促する輩が増えてくる。これも彼らが主な原因だろうと思います。こういう人たちは高校4年生気分なんだろうなぁ、と感じる日々。
何のために大学に行くかっていうのはまぁ実際には難しい問題で、特に現代は若者が夢を失いがちらしいので仕方のないことかもしれませんが、大概の人が親に大金払わせていながら授業をサボることばかり考えているのは残念だなぁ、と。第一高校の時点で興味を持てるものが一つもないってことはないと思うんです。いやこれも理想なんですけど、実際18年近く生きて何にも興味ないなんて悲しすぎると思いませんかね。
で、興味のあるものがあればそれについての大学に入る、と。ただし一方で自分の興味のあることを大学に入り深く勉強することで、一体将来何になるのか? という大学=就職予備校的なイメージによってこの興味関心は薄れ、濁り結局は興味のあることがない、ということもあり得そう。
私が一番残念に思うのはこの大学=就職予備校のイメージです。
実際学者にでもならない限り、人生でここまで好きなことに対して学び通せるっていう機会は大学が最後なんですよ、多分。そんな貴重な時間を就職という社会生活上ほぼ必然的に起こるイベントのために潰してしまうのは実にもったいない。実際削る必要性はあります。ただ近年は削りすぎでは、とも思います。
なりたくもない職業の資格を就職に有利そうという理由のために時間を削りに削り、大卒のレッテルのためにとりあえず授業にだけは出て寝る。嗚呼なんてもったいないことかー。と思うわけですよ。
哲学美学? えぇ就職では不利と言われてますよ。でも私はこれが学びたいことなんです。私には学者以外の夢がありますから社会にでなきゃいけないです。だから人生最後に自分のやりたい学問を夢中になって学ぶんです。
まぁ実際には私は就職を見据えての選択なんですけどね。私が哲学美学を学ぶのはwantであって同時にmustなんですよ。いつかドラマで「mustじゃないの、wantなの(キリッ」なんていうキャリアウーマンのセリフがありましたが、私にしてみればお笑い草なんだよ!
私みたいなケースは少ないと思いますけど、人生最後の学びが主役の場所だもの、wantで動いたっていいじゃぁないか。これが私の主張であります。
でも実はこうやって自身の一種快楽を追求した私が就活で上手くいかず、適当に大学に通いつつもしっかり資格をとってる人が就活で上手くいくっていうのはあるかもしれない、いやむしろそっちの方が多いかも? その時彼らは私を笑うでしょうけど、私も彼らを笑うのですよん。
きっと泣きながら(;ω;)<君たちは勉強という快楽を未経験なのさ~
あ、こんなこと書くと勘違いされそうですから一応断っておきますが、私とて二日酔いで授業に出れないこともあったし、授業中寝てしまうこともあります。別に友人の誘いを断り続け一人もくもくと机に向かっているわけでもないです。
なんたって青春を本当の意味で謳歌できるのもまた大学までですから、私はそれも無駄にはしないようにしたいのです。
欲張り? ここまで学問と青春は大学までだ、と言っておきながら私の座右の銘は「一生勉強一生青春」(みつお)ですから仕方ない。ただ本当に他の何にもとらわれずに勉強、青春に励めるのはきっと大学までだと思うのですよ。今しかできないことを!
ではでは、この辺で。
これは別に今日思ったことではないんだ。前々から感じてたことだけど書く機会がなかったというかね、せっかくブログ作ったから二日目くらいは書こうというかね。
もう物心ついた時には自動ドアは割と普及してたと思うのですが、未だに慣れません。アレなんですよ、私がドアに近づくだけでドアが開き「いらっしゃいませ~」なんて言われても、なんか機械的で私に対してというよりドアが開いたことに対しての「いらっしゃいませ」に聞こえてしまう…。
自分でドアを開けて中に入って「いらっしゃいませ」って言われて、「今日は暑いから開けっ放しでいいよ」みたいな小さい会話をしたいんだよ。自分だけなのかなぁ。
それにそのうち自動改札も――これももともとは人が切符切ってたわけだけど――通るだけでICチップみたいのが反応して金払ったことになって、買い物のレジも同じ仕組みで支払って、ETCなんて既にそうだし、車も近付くだけで鍵が開くタイプとかあったよね。
最終的に自分の意識とICチップみたいのが科学的な何かで結合して店に入るだけで自分の欲しいものが自分の前に現れて、車も目的地まで勝手に進んで、ガソリンスタンドも意思に反応してロボットか何かが何も言わなくても給油してくれるんだよ。
そして指紋認証どころか目で認証するシステムが開発されて、玄関の前にただ突っ立てるだけで鍵が開き、未成年はそれで識別されて酒が買えなくなり、塾をさぼってる子供とかがどこかのカメラを見たときに認証されてサボってるのがバレる。
もう改札口に詰まってる人を見て細くほほ笑むこともなければ、どのレジがすいているか考えることもせず、ガソリンスタンドの兄ちゃんの元気な対応も見れず、鍵忘れて友達の家にお世話になることもないし、いきがって学生が酒飲んだりもできない、たまに気がふれて塾さぼることもできない。
最後に人間の体内に埋め込まれたチップがロボットとかに操られて人類が滅亡!とか奴隷化!
恐い恐い。
今こんなこと言ってもねーよかもしれないけど、段々ゆっくり進化していけば案外すんなり人々は受け入れると思う。便利だし、犯罪予防にもなるし、楽だし、人件費もかからない。いや人類滅亡とかはもうSFの領域ですけど。
いや実際そんなことはないとは思うんですけどね。妥協しつつも途中でそれはやりすぎだろってなって、なんでも自動なんてのはないと思う、理想としては。
でも自動ドアをくぐるたびに、ファミレスでボタン押しただけで店員が来るたびに、学校で出欠確認にカードでピッてするたびにetc…どんどん自動化してるこえーーってなるんですよ。
未だに音楽はCDを買うし、電子書籍なんて絶対やだし、関係ないけどデジタル時計がよく読めない。
あー、きっと私みたいのがデジタルデバイド的なのでおいていかれるんだ。
いや、でもパソコンでブログやって、ペンタブで絵を描き、ゲームっ子…案外生き残れるかもしれない。
ん? もしやすでに自動化の世界に妥協してるのか自分は…恐い恐い。
ではでは。妄想に付き合ってくれてありがとうございます。
もう物心ついた時には自動ドアは割と普及してたと思うのですが、未だに慣れません。アレなんですよ、私がドアに近づくだけでドアが開き「いらっしゃいませ~」なんて言われても、なんか機械的で私に対してというよりドアが開いたことに対しての「いらっしゃいませ」に聞こえてしまう…。
自分でドアを開けて中に入って「いらっしゃいませ」って言われて、「今日は暑いから開けっ放しでいいよ」みたいな小さい会話をしたいんだよ。自分だけなのかなぁ。
それにそのうち自動改札も――これももともとは人が切符切ってたわけだけど――通るだけでICチップみたいのが反応して金払ったことになって、買い物のレジも同じ仕組みで支払って、ETCなんて既にそうだし、車も近付くだけで鍵が開くタイプとかあったよね。
最終的に自分の意識とICチップみたいのが科学的な何かで結合して店に入るだけで自分の欲しいものが自分の前に現れて、車も目的地まで勝手に進んで、ガソリンスタンドも意思に反応してロボットか何かが何も言わなくても給油してくれるんだよ。
そして指紋認証どころか目で認証するシステムが開発されて、玄関の前にただ突っ立てるだけで鍵が開き、未成年はそれで識別されて酒が買えなくなり、塾をさぼってる子供とかがどこかのカメラを見たときに認証されてサボってるのがバレる。
もう改札口に詰まってる人を見て細くほほ笑むこともなければ、どのレジがすいているか考えることもせず、ガソリンスタンドの兄ちゃんの元気な対応も見れず、鍵忘れて友達の家にお世話になることもないし、いきがって学生が酒飲んだりもできない、たまに気がふれて塾さぼることもできない。
最後に人間の体内に埋め込まれたチップがロボットとかに操られて人類が滅亡!とか奴隷化!
恐い恐い。
今こんなこと言ってもねーよかもしれないけど、段々ゆっくり進化していけば案外すんなり人々は受け入れると思う。便利だし、犯罪予防にもなるし、楽だし、人件費もかからない。いや人類滅亡とかはもうSFの領域ですけど。
いや実際そんなことはないとは思うんですけどね。妥協しつつも途中でそれはやりすぎだろってなって、なんでも自動なんてのはないと思う、理想としては。
でも自動ドアをくぐるたびに、ファミレスでボタン押しただけで店員が来るたびに、学校で出欠確認にカードでピッてするたびにetc…どんどん自動化してるこえーーってなるんですよ。
未だに音楽はCDを買うし、電子書籍なんて絶対やだし、関係ないけどデジタル時計がよく読めない。
あー、きっと私みたいのがデジタルデバイド的なのでおいていかれるんだ。
いや、でもパソコンでブログやって、ペンタブで絵を描き、ゲームっ子…案外生き残れるかもしれない。
ん? もしやすでに自動化の世界に妥協してるのか自分は…恐い恐い。
ではでは。妄想に付き合ってくれてありがとうございます。
ブログ始めようと思ったのは自分の考えを保存しておきたいからです。
じゃあ日記つければ? って思うかもしれないけど人に見てもらえればそれはそれでいいかなっていう。それに見る人は限られているでしょうから。
ブログの名前は邦訳すれば「飛んでいる矢のお漬物」です。ダサいから英語にしました。
日記は過去の自分の保存だからお漬物みたいなものだろうっていう簡単な理由です。
私は自分の日記を読み返しますし場合によっては書き足しますから、漬けた野菜とかの味をみたり味が悪ければ何か足す作業に似てるかな? と。
飛んでいる矢っていうのはゼノンの「飛んでいる矢は止まっている」っていうのから取りました。
飛んでいる矢はその瞬間瞬間には止まっているかもしれないらしいので、私の人生も刻々と進んでいますがその瞬間の断面を記録しておこうという考えです。
毎日更新するつもりはないです。
日常をなんとなく書きたい時、妄想を書きたい時、レビュー書いたり、愚痴ったり
ツイッターみたいな短い言葉では表現できない時にここを更新します。
だから記事は基本的に長文になると思いますがどうぞよろしく。
あ、コメントが来たら返信はする予定です。
じゃあ日記つければ? って思うかもしれないけど人に見てもらえればそれはそれでいいかなっていう。それに見る人は限られているでしょうから。
ブログの名前は邦訳すれば「飛んでいる矢のお漬物」です。ダサいから英語にしました。
日記は過去の自分の保存だからお漬物みたいなものだろうっていう簡単な理由です。
私は自分の日記を読み返しますし場合によっては書き足しますから、漬けた野菜とかの味をみたり味が悪ければ何か足す作業に似てるかな? と。
飛んでいる矢っていうのはゼノンの「飛んでいる矢は止まっている」っていうのから取りました。
飛んでいる矢はその瞬間瞬間には止まっているかもしれないらしいので、私の人生も刻々と進んでいますがその瞬間の断面を記録しておこうという考えです。
毎日更新するつもりはないです。
日常をなんとなく書きたい時、妄想を書きたい時、レビュー書いたり、愚痴ったり
ツイッターみたいな短い言葉では表現できない時にここを更新します。
だから記事は基本的に長文になると思いますがどうぞよろしく。
あ、コメントが来たら返信はする予定です。
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