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去年レポートで書いたやつに手直ししてみた。
直接的でないにしろフクシマのことにもつながるところあるんじゃないかと思う。
放射線に恐怖するのはもとっもなことだけれど、もっと恐怖すべき対象が身近にいるんじゃないかな。

『キング・コング』~究極の猿モチーフ~
1.“猿”というモチーフ
 ダーウィンの『種の起源』が発表され「人間は猿から進化した」という衝撃の仮説――人間は神が自分に似せて作ったのだから――が世に広まった。そしてまた『種の起源』において主張された自然淘汰説は社会にも応用され、高等な人間である西洋列強国は下等な人間(=人間の進化前のイメージ=猿。具体的にはアフリカ、アジア)を啓蒙するのが正義という社会ダーウィニズムの下で帝国主義は当然のこととして進められた。しかし、下等であり啓蒙されるべき野蛮な人間が反旗を翻し西洋列強に立ち向かい反乱をおこし始めると西洋人たちは焦り始める。このまま自分たちが下等な人間共に侵略されるのではないか、という不安に駆られたのだ。この恐怖・不安から帝国主義ゴシックという一種の文学ジャンルは生まれ、これらの作品においては猿のモチーフが下等・野蛮・退化のイメージをもって数多く登場した。猿によって人間がおかされるという恐怖を描いたのだ。ただしそれの多くは帝国主義に対する反省ではない、と同時に私は考える。ただ単に異質な猿への恐怖を描いたに過ぎない。

2.典型的な“猿”のモチーフ ~『猿の惑星』(1968)における猿~
 小説をもとにした映画『猿の惑星』で登場する猿は言語を理解し、知性も発達していて、その上身体能力に優れ、人間を支配している。下等であるはずの猿は進化し、人間は支配されるという構図はまさに帝国主義ゴシックの典型といっていいだろう。
 猿文明よりも発達した文明にいた人間である主人公の視点で物語は進行するが、ここで気をつけたいのはこの視点こそが我々視聴者の視点に近いということである。要するに主人公とは現代人であり、我々の代表である。猿たちの顔は人間にしてみれば醜く、彼らの見せるいかにも動物的な興奮状態も我々人間からすると印象が悪い。それゆえ言葉も話せないこの世界の人間の方に味方したくなる。つまり猿と人間の立場は確かに逆転されているかもしれないが、あくまで人間は理性的で美しく、猿は野蛮で醜いのだ。(後に作られた続編においては人間自身の愚かさが描かれていないことはないが)
 物理的な力、目に見える権力といった表層においてこそ猿>人間が成り立つが、それに反して精神性といった内面的な話になると実は人間>猿という自負が見てとれる。そしてより視聴者・読者が同情し共感するのは当然内面で猿に上回る人間ということになる。この特徴は他の多くの猿が登場する帝国主義ゴシックに共通する。
 この考え方で見ればこれらの物語は、植民地活動という行動をした西洋人が野蛮であったというような“反省”は全くなく、あくまで野蛮な非西洋人(=猿)に逆転されるという屈辱、恐怖を描いたにすぎないと感じるのだ。これが帝国主義ゴシックは帝国主義に対する反省では全くないという主張の所以である。
 しかし私は『キング・コング』は例外であったと考える。

3.『キング・コング』
 『キング・コング』に登場する猿のモチーフはいうまでもなく、巨大なゴリラのような姿をしたコングのことである。三度にわたりリメイクされたがここでは1933年の初代と2005年の三代目を中心に述べる。1976年版は中点の入らない『キングコング』であり、またDVDも見つからず、記憶があいまいなので軽く触れる程度にする。
(1) 物語前半 ~開始からコング捜索まで~
この時点でのコングは他の物語に登場する猿と違わず下等で野蛮な描写がみられる。初代においては醜い顔つき、粗野で乱暴な仕草、人食い、美女をさらい服を剥ぐなど数々の蛮行を見せる。05年版では顔つきは実際にいるゴリラに近く醜いというイメージは薄まり、また表情豊かで、美女も恐怖とは違う正の感情をコングに抱く。しかし強調すべきは、いずれのコングも人間を圧倒する力をもって敵対していることだ。
これらの描写から見てとれるものとして、その圧倒的な腕力においての猿>人間の関係、理性的か野蛮かという点では人間>猿の関係が見てとれるだろう。つまりは典型的な表層での猿の優越、内面での人間の優越が見てとれる。ここまでのコングは『猿の惑星』の猿と対して変わらない。
(2) 物語の転換 ~コングの補獲~
 人間たちは美女を救い出すことに成功するが、ここでコングの捕獲という行動に出る。そして補獲に成功するシーンで猿>人間という物理的な力関係は逆転される。そして重要なのは精神面での人間>猿という関係に疑問符がついてくるということだ。コングを捕獲した時の「みんな億万長者になれるぞ。ブロードウェイに出す。“コング 世界第8の不思議”だ!」というセリフに誰もが人間のエゴを少なからず感じるだろう。
 初代が公開された当時、世界恐慌であったことからも金銭にたいする人間の野望の虚しさを感じずにはいられない。そして05年版当時は環境破壊が問題視されており、自然に対する人間の身勝手さをも表していると言えるだろう。コング=猿は初代においては経済効果を狙える被侵略地域を、05年版では自然そのものあるいはその神秘を、象徴しているのだ。
(3) 物語後半 ~見世物小屋のシーンからコングの死まで~
 画面は暗転しコングを見世物にしたことによってぼろ儲けする人間の姿がうつされる。そして縛り付けられたコングが現れ、美女をさらい、逃げまどう人々を踏みつぶしながらの脱走、美女を片手にエンパイア・ステート・ビルへと登る……頂上で複葉機に一方的に攻撃され、死亡、落下。初代と05年版に共通する流れである。
 この場面で物理的な力が完全に人間>猿であることが強調され、そして視聴者の同情がコングの方へと移動する――初代ではコングが美女以外の人間に対してあまりに残酷なので情が湧くのは本当にラストシーンに限られるかもしれない――。76年版、05年版に関しては美女が完全にゴリラに対して同情あるいは好意を抱き、庇うというシーンがあるので、視聴者のコングへの同情はさらに後押しされるだろう。コングを身勝手にニューヨークに連れてきて、そして殺すという横暴さが人間の理性に疑問を投げかけ、美女のコングに対する感傷や、コングが美女に見せる哀愁の表情がコングの野蛮に疑問を投げかける。この二つの要因によって精神面における猿>人間が達成される!
 ここに帝国主義への、そして05年版においては自然環境にたいする帝国主義への“反省”が見られるのだ。猿という下等なものの侵略というイメージではなく、人間そのものの失墜、堕落、野蛮を強調することが『キング・コング』における最大の価値であると私は考える。猿が力をつけて人間に逆転するのではなく、人間が己も気付くことなく堕落し猿に逆転されるということだ。
(4) 最後のシーン ~美女が野獣を殺したんだ(beauty killed the beast)~
 ビルの上で死に、落下したコングを見て放たれるセリフ。もちろんセリフの直前に「飛行機ではなく」が入ることは容易に想像できるだろう。
 飛行機が殺したのだったらそれは物理的な力における人間の優位を示すに過ぎない。かといって美女が殺したというのが精神面での人間の優位を表すわけでも当然ない。下等で野蛮だと思われていたコングが女の美しさという人間的な感覚に魅了され彼女を愛し、ついにはそれのために命まで落としたという、紛れもないコングのもつ高い精神性を称賛するものだ。この物語のテーマはこのセリフに集約されていると言っていいだろう。

4.恐怖映画としての『キング・コング』の性格まとめ
 典型的でないにせよ『キング・コング』は帝国主義ゴシックに他ならない。しかもそれは、高等な人間と下等な猿の表層的な立場逆転というのではなく、精神面における人間の野蛮化、猿の高等化という本質的な逆転であり、ある意味では帝国主義ゴシックを最も衝撃的な形で提供したものだと私は考える。つまりは究極的な形の猿モチーフだったのだ。
 そしてゴシック小説(映画)が常にその時代の世相を反映してきたように、初代の『キング・コング』は帝国主義、世界恐慌の影響を受けており、05年版においては同じようなストーリーながらも環境破壊という問題を私たちに“反省”させる。『キング・コング』は単なる映像効果に優れたパニック映画では決してない。


終わり。
長文読んでくれてありがとー。
上記以外の猿モチーフだと、タイムマシンに出てくる名前忘れたけどあの猿っぽい方とか、ジキルとハイドのハイドも捉え方によってはそうだと思う。
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酒に強いことはよく羨ましがられるけど、実際みんなが酔っているところで一人シラフだと辛いよ? テンションについていけないんだ。
そんな状況でたぶん今年最後になるであろうブログを書こうと思う。
レポート、飲み会、アルバイト…なんやかんや年明けまでは忙しいのが続くからせめて今日今年をまとめようじゃないかと。

今年はとりあえず大学に入ったことが一番大きいことだよね。
実は第一志望じゃない。いやかといって今いる学校が滑り止めかと言われれば違うんだけど。
でも良かったと思う。結局今一緒にバカやったり、美学語ったりしてる友人たちは他のところでは出会えなかったわけだから。第一志望に落ちて良かったとはいわないけど、今の学校に来れて良かった。人の出会いは一期一会でそこに差異はあるけど優劣はないと思う。ある人は成績が悪い横柄な態度をとるやつをDQNとか呼んでバカにするけど、やはり彼らにしかない人づきあいがある。それはある人には分からない付き合いだろう。
成績優秀者への奨学金目指して頑張ったけど学年1位はどうも無理そう。子供手当とかいいから奨学金制度をもっと頑張って!政府!

あとは岡本太郎との出会いが大きかった。
“出会い”と言っても名前は知ってたし、小さいころから土地柄彼の芸術に触れる機会は多かったけど。
ただ彼の本を何冊か呼んで、彼の芸術観が自分の抱いていた曖昧模糊な芸術観を圧倒的な大きさで包含してたことに驚いたし、嬉しかった。もちろんそれは違うと思うところも多々あるが、今まで見てきた人の中では一番好きだと思う。


あとは印象深かった本とゲームを載せていく。
いちおう私のおススメだから興味を持ってもらえたらとても嬉しいです。

ソクラテスの弁明・クリトン
たぶんある一定の年齢に達している人ならタイトルを知らない人はまずいないと思う。知ってるだけじゃしょうがないから読むと良いと思うよ。

1984年
1Q84とは関係あるのかないのか、あれは読んでませんが…。とにかく面白かった、そして読んでて恐くなる。特に私みたいに電脳化の進む現代に違和感のある人なら変な汗かけると思う。

美の呪力
岡本太郎の本。何か創作する人なら必読だと思う。彼の思想を取り入れろ、といのではなく読んでおいて損はないぞって感じです。

ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座
実はこれはずいぶん前に読んだものなんだけど最近読み直したので…。おそらく宗教観は変わると思う。特に日本人は海外の宗教事情にあまりにも疎いのでおススメ。

日本人と中国人
題名通りの両者の比較文化学。少し古い本であてにならないところもややあるんですが、知ってるようで知らないお隣さんの理解に役立つと思う。これもとりわけ日本人は彼らを誤解(そして彼らも私たちを誤解)しているので良いと思った。

オイディプス王
ギリシャ悲劇の代表作の一つ。近年の悲劇なんかばかばかしくなってくるくらい精緻で美しい悲劇。聞いたことある人も多いと思います。うすい本なので是非。

大神
私がやったのはWii。ちょっと簡単すぎたけど泣けるし良かった。安心して人に勧められる。MOTHER2以来の子供にやらせたいゲームかな。

FF外伝光の4戦士
巷の評価は結構厳しいようですが、私的には好きだった。ストーリーもややちんけだけどコンセプトが昔ながらの王道RPGなので問題無いと思う。グラフィックもDSで出す必然性を感じるもので、戦闘システムも面白かったです。

サガフロンティア2
こちらはまだ途中。やはり巷では賛否両論ゲーなんですがあれはあれでありだと思う。音楽とストーリー、グラフィックの調和がよくとれていて雰囲気が好き。戦闘システムは若干分かりにくいけどテンポがいいからストレスはそんなにたまらない。ただ少し難しい。すでに一回詰んでます。


後半ただのレビューでしたけど私にとっては知の地層を丹念に遡っていた感じでこのブログの趣旨には合致してるので無問題としておく。
少し早いけど良いお年を!
ではでは
今度サークルでボーリング大会やるそうです。
おそらく主催者の趣味的にボーリング→カラオケなのは明らか…。
ただでさえボーリング苦手なのに、その上カラオケとか考えられん。

私がカラオケ嫌いなのは一に歌うのが苦手というのがあります。
「歌うの苦手でも大丈夫だよ。みんな下手糞だよ!」
「歌うのが下手とかww誰もお前の歌聞きに来てるんじゃねぇよ、自惚れんな」
などなど優しい言葉からムカつく言葉までいろいろ言い聞かせてきて、最終的には「歌わないで場を盛り上げれてればいいよ」っていう風になる。
行きたくもないところに連れて行かれ、食べたくもない糞まずい飯を食い、聞きたくもない歌を聞いて、お金を払い、場を盛り上げろ……だと!?
どうしてそんな拷問を受けなくちゃいけないわけさ? しかも大概歌わずにいると後半で「お前もなんか歌えよ。え? 歌わないのノリ悪っ!」とか言って罵倒されるんだ、歌わないでいいって言ったのはお前らだろ~。
てなわけで、カラオケはいやなんですよ。そして罵倒されずにいたとしても何も歌わずに相槌を打ちながら淡々と聞いているのも気まずい、声には出さなくとも私に向けられる微妙に負の感情のこもる視線には気づいてしまう。普段は鈍感だけど嫌なことだらけでいつ歌を振られるのかビビってる状態だと感度が上がっちゃうんだよ。

とはいえ今の時代カラオケはもはや社会的なコミュニケーションツールの一つ。学生、サラリマーン、OL……あらゆる人々はカラオケに行き歌い、交流を深める。そしてこの習慣は文化として海外へと飛び出しKaraokeとして世界で親しまれている…。
しかしここで私は思うのですよ果たしてカラオケがそこまで優秀なコミュニケーションツールなのか、と。それによって実際に交流を深めることができるのか、と。人が数人あるいは十数人集まり、他人の世界とは断絶された閉ざされた狭い部屋で、盛り上がりながらしかし同時に黙々と、歌い歌を聴く。強調したいのは一人が歌うのをみんなで聞くということ。しかもみんなで聞くというよりかはむしろ自分の歌う番を待ってるという印象。マイク、早く俺のところに来るんだっ!って印象。せっかく人がたくさん集まってるのに一人だけが歌い(あるいは数人で歌い)他が聞いているという状況が私には奇妙に、SF的に感じられます。
一人の代表者が前に出て歌う、何かするというのは儀式地味ていて古代からあった習慣のように思えますが、カラオケはむしろそういった互いの立場、垣根を超えるツールのように私は思いますので祭儀などにおける儀式の延長の文化にはならないでしょう。歌う人は代表者ではないですからね、対等な立場として順番に歌うだけですので(世の中には接待カラオケという言葉もあることはありますが)。まぁ、ここではカラオケの起源を探るわけではないですからこの話は終わらせましょう。
私が言いたいのはどうしてそんなに人がたくさんあつまるのに、ひとりひとり順番で歌っているの? ということ。うちの親族の人はあまりにカラオケには行きませんでした、集まる機会があれば大きい和室を一室借りてみんなでばか騒ぎしてたと思います。踊ったり、楽器できる人がいれば弾いてもらったりして…。具体的にいうと沖縄の人たちが「イーヤッサッサ」とかいいながらぴゅーぴゅー口笛を吹いているイメージです。こういう方がいいと思うんですよ、カラオケで陰気に一人で歌ってるのを眺め、盛り上がるより、みんなで歌い、踊ったほうが楽しいに違いない! 私自身一人で歌うのは嫌いですがみんなで歌うなら臆病な羞恥心も消え失せますからね。嗚呼、懐かしき自然教室で炎を囲みマイムマイムを歌い、踊った日…と思いだせます。みんなが集まって何かするのはやっぱり一種のお祭りだと思う、神を祀るわけじゃないけど、こうしてみんなが同じところにいれることの運命を祝ってるような気がするんですよね。繰り返しになりますが、そんな機会を祝う手段がカラオケだなんて…
多分これを読んでもカラオケ好きな人は「いや、聞いてる方も楽しいしw みんなで歌う時もあるしw」って感じかもしれません。しかしやはり私には違和感があるのですよ、せまい空間で一人の歌を大勢が聞き、それが交流を深めるという通説、文化に。

とはいえ現代はみんなが集まり広い空間で大騒ぎするような場所は少なくなっているというのも事実。都会の建物は横よりも縦に大きくなっていき、一つの家に住む世帯数は確実に減り、家族で同じ屋根の下に住むのに二世帯住宅なんていう不気味なシステムある。メディアの叫ぶ近隣住民のコミュニケーション不足は珍しく的を得ていると言えるし、本来時間のある学生たちは早々から就活、またそのための資格取得に奔走する。みんなが集まりそれを祝うためには、もはや空間的にも時間的にも、そして悪いことには環境的にも厳しいかもしれません。そしてこれら厳しい条件の中で生まれたのがカラオケ、狭い空間でほどよい人数で時間料金制、ひとりひとりが個々に持つストレスを歌うことで発散する。社会的な結びつきは希薄ですから、学校の仲間、職場の仲間…そういう狭い人間関係のなかで集まるにはちょうどよかったのかもしれませんねカラオケは。そういう意味では一つの文化と言えるでしょう。文化は人間が自然、社会など自らを取り囲む環境の変化に応じて姿を変えていきますから。でもここで互いのストレスを、苦を、喜びを…共有する文化は失われているように思えます。ひとりひとりが順番に歌うという行為は、相手の気持ち、境遇を自分のことのように考え、感動するという心理を確実に拒絶しています。これはいいことなのか悪いことなのか。個人主義が謳歌されつつも疑問を持たれ、全体主義は戦争の反省から絶対的に批判される、こんな揺れ動く世相を反映しているともいえるかもしれませんねぇ、ひとりで歌うのか、みんなで歌うのか、という問題は。

長い文章読んでくださってありがとうございます。
ではではー。
多分岡本太郎の本を読み漁ってるからなんだけど、最近自分の中から言葉では表現しづらいエネルギーかな?気合いかな?みたいのが外に向かって…こう…ドーン、と。しかも無目的に込上げてくるだけきて、無駄にあふれ出ていってる。気がする。
昨日久々にあった友人は作曲の仕事に励んでいるそうで、その話聞いた時もなんか、自分から漏れ出してた気がする。
この外に向かっていく力を無駄にしちゃいけないような、そういう思いはあるんだけども、目的をもってそれを方向付けようとしたらもうダメになるような気もするんだよね。実際この感じを文章化している今この瞬間は恣意的なものが頭の中を埋め尽くそうとしていて、外側に行くものを封じ込めている感覚です。考えれば考えるほど言葉が出てこなくなる、というのが具体的な現象かな。

そんな状況でどうしてブログなんて書いてるのか。
まぁ衝動的にPC開いて書き始めただけなんですけど、この日記は私の人生の断面を漬けるのが目的ですから、いっかな。また次に漬けものの味をみるのを楽しみに、この辺で切り上げることにしよう。

多分読んでも意味わからないかもしれません。でもこんな経験がある人は…というか誰もがこんな経験をした、あるいはするんじゃないかと思うんだ。
*めっちゃ長いです。時間のある時にどうぞ。

噂のゆめにっきをプレイしました。
プレイ日記とか銘打ってますが今回しか書きません。
あ、加筆はするかもしれませんけどね。

ゆめにっきは有名なフリーゲームでして、おそらく知ってる人も多いことと思います。
これから書くのは考察のようなものです。
これからプレイする人、プレイ中の人、まだやってない人…。とにかくプレイした人で行きつくところまで行った、と感じた人以外は読まないことをおすすめします。
また私はこのゲームをプレイしてみることもおすすめします。
雰囲気は少し恐い(不気味?)ので、私みたいに寝れなくなるかもしれませんけど、慣れれば大丈夫です。
では、考察を書いていきたいと思います。



私がゆめにっきというゲームを知った理由は明確には覚えていません。
多分ネットサーフィンしていた時にたまたま見つけたんだと思います。
トラウマという言葉と一緒に覚えていて、それで興味を持ったのかと。
プレイするにあたり極力情報を避けました。これは私がゲームをする時の習慣です。
ただ、ゲームの性格上途中で完全に詰んでしまったので、エフェクトを信号、魔女、うんこヘアー以外集めた状態で攻略サイト(公認)を頼り、またそこでEDの存在を知りました。
またゆめにっきに関する考察もクリアしてから読みました。(といってもニコニコ大百科くらいですが)
そのため、本来存在しないさまざまな固有名詞はネットで多く流用されているものを使うと思います。

どこが考察? と思ったかもしれませんが、一応環境を伝えておきたかったのですよ。次からは本当に考察を書きます。
ED見てないのにこの文を読んでる人、引き返すなら今ですよ!


現実と夢の二重で窓付きは生活しているわけですが、窓付きはほとんど夢で生活することになります。現実では外にも出ず、出来ることはゲームと寝ること、夢日記をつけること、そして最後のアレだけです。
ここに現実と夢の逆転を感じました。本来夢で見たことを書きつける夢日記ですが、窓付きの場合ほとんど夢日記をつけるために夢を見ている状況です。
現実で外に出ようとすると首をふることから、窓付きは現実からは逃げたい、現実はあまり見たくない、あるいは現実には何らかの理由で出れない状況にあり、その代わりに夢を見ているのでしょう。
しかし夢で見るものは現実で見聞きしたことが反映されますから、彼女にとって必ずしも夢が居心地がいいものとは限りません。実際のところ夢の世界は不気味さや恐怖をプレイヤーに与えます(まぁこれに限ってはひとそれぞれですけど)。窓付きがこの世界をどう思っているかはわかりません。しかし様々なエフェクトを手に入れるうち段々夢の世界に魅かれていくでしょう。そしてその気持ちはプレイヤーと通じます。プレイヤーの多くは最初はたださまよっているだけで目的もなくつまらなく感じますが、最初にエフェクトを発見しした瞬間に目的めいたものを自覚してゲームを楽しんだのではないでしょうか? だからエフェクトやそれによってもたらされる夢の世界の些細な変化は夢の世界における楽しみであり、窓付きにとってもそうであると思います。
エフェクトがなんであるかと考えますと、窓付きにとっての願望(意識的な願望や潜在的な欲、現実では体験できない何か)というふうに私は思いました。箒に乗って空を飛ぶ、いろんな髪型をしてみたいというような分かりやすいものから、殺意といった意識の水面下での欲望などなど…。一見意味のわからないエフェクトも今の窓付きではなく過去(きっとドアの外へ出られた頃)のちょっとした願望ではないかと思うのです。例えば、幼少期にカエルと話してみたかったとか、暗くて恐い目にあった、早く自転車に乗れるようになりたい……明日はテストだから雨が降ってほしい、風邪を引きたい、雪降らないかなぁ……こんな感じで。
そして最後に窓付きは願望、楽しみであるエフェクトを捨てるわけですが、これはまた最後に話します。
夢の世界で窓付きにとって障害となるものはほとんどありませんが、鳥人間だけが障害となっています。半狂乱の面持ちでひたすらおっかけてくる鳥人間は窓付きにとっては恐怖であると思います。何しろ場合によっては楽しみである夢から覚めなければならないのですから。
狂っていない無害の鳥人間で尚且つ刺すことによって狂うものは、確か何人かいましたが、私の思う限りでは全員ベッドのある空間にいたのではないかと思います。ベッドのそばに常にいるもの…それは母でしょうか。まぁ母というのは考察を読んでかなりしっくりきたもので、そこに自分なりの理由付けをしただけなのですが。
ともかくそれが刺すことによって窓付きを拘束するものに変化する。というのは母との確執を感じます。刺すという行為は鳥人間に向けられた場合反抗の象徴であり、鳥人間が狂うというのは過剰な子供への制裁を象徴しているのか…ようするに虐待ですね。それだと外へ出たがらないというのが一見矛盾めいてますが、おそらく罰せられるのでしょう、赤の王様への扉が窓付きの部屋の扉と同じことにそういうものを感じます。強制起床というのは外に出られない窓付きにとってそうとう嫌なことでしょうから。
次に最初から狂っている鳥人間ですが、これは母とはまた別のだと思います。恐怖の対象に変わりないのですが、同時に恐怖の象徴でもあり、怒っている母の姿が数ある恐怖の代表として一種シンボル化されているのかな? と感じました。
最後にゼンマイみたいのが生えてる砂漠で踊っている鳥人間です。楽しそうに踊る鳥人間には近づけないというのが印象的でした。この鳥人間たちは決して狂わないので恐怖の対象とは違いますが、私はこれらが母以外の近親者であると思いました。母からは虐待を受けているわけですが、他の家族はしなかったのだと思います。もちろん何もしなかったのでしょう、虐待もせず、助けもしない。ただ楽しそうにしているが、自分は無視される存在。鳥人間の姿をしているのはそれが近親者の象徴にもなっているのではないか、と考えました。
鳥人間の話で軽く触れましたが、現実の部屋と同じ形をした扉は夢の世界に三つあったと思います。夢の部屋のもの、扉がたくさんある部屋のもの、赤の王様へと続くもの。前者二つは同じでは? と思うかもしれませんが、どちらの扉も開ける時は奥に向かって開くので意味があるのかなと感じました。(ただどっちにも開くだけなのかもしれませんが)
そこで私は現実の窓付きと夢の部屋から出た窓付きとは他者であるように思いました。記憶を共有するだけの二人の窓付きといったイメージでしょうか。性格の乖離はともかくジキルとハイドの関係に近いものです。本来の姿である現実の窓付きが楽しみである夢の世界の窓付きになる。ただそれが現実で夢日記をつけるために夢を見るようになり、生活がじょじょに逆転していく。まるで夢の窓付きが本来であるかのように…(ジキルは快楽の代行者としてハイドを作り出し、快楽にふけりますが、結果としてハイドにのっとられます。まぁ私的には単なるハイドの侵略ではないと思っていますが、ここで離すと長いし、わかりやすい例なだけなので割愛)。そこで二人の窓付きの境界が夢の部屋の扉だと思ったのです。ちょうどあの扉が鏡のように二人の窓付きを分かつものだと。どちらも奥に開く扉の意味を私はこう考えたわけです、夢の窓付きへの扉であるが、同時に現実の窓付きへの扉でもある。じゃあ夢のベランダと夢の部屋にいる窓付きはどうなの? と思われるかもしれません。それは私たちが夢で見る私たちと同じものです。だから赤い迷宮に登場する半透明の窓付きは、夢の窓付きに立場を奪われた、本来の夢の窓付き(私たちが普通夢で見るような私たち自身)ではないか、とも思います。
ではなぜ窓付きが現実と夢に二つの姿(自我)を持つようになったのか……安直ですが夢に対する人並み外れた思いがそうさせたのかもしれません。
そして最後のシーンです、夢の世界の窓付きにとっては楽しみ、現実の世界の窓付きにとっては願望であるエフェクトを捨て、現実で身を投げる。
私はエフェクトが卵の姿をすることからあれを捨てるとは考えにくいと思いました。おそらくあの一連のシーンは夢の窓付きが現実の窓付きを乗っ取る瞬間だと思います。二人の窓付きはたがいに同等であるようですが、夢の窓付きの存在は夢を見る現実の窓付きに徹底して依存しているという特徴があります。これは鏡に映る向こう側の自分が自分なしには存在しえないのと同じです(またジキルとハイドもそういう関係にありました)。
現実に面白みをなくし夢の世界に魅力を感じる窓付き(ここで言う窓付きは夢も現実もです)にとって、夢における自我が現実の自我に依存していることはとてもネックだったと思います。現実の窓付きなしに夢の窓付きだけを存在させる、いわば夢の住人になるような願望が生まれたのではないでしょうか。
だけどどうしたらできるのかは分からないし、そんなことができるかもわからない。そこで夢の窓付きは現実の窓付きとの関係をできるだけ薄めるべく、現実の窓付きの願望であるエフェクトを卵にして一回身から離した。現実との関係を断てば夢の窓付きがそれ自身で存在できると信じて目を覚まし、現実の窓付きは意を決して身を投げた。
そんなふうに私は考えます。窓付きは単に負の感情にまみれてではなく、まさに一生に一度の大きなかけとして大きな決心をして最後の行為を選んだ、と思います。だから身を投げた時、落下するのではなく飛びあがって降りたのでしょう。
果たしてそのかけは成功したのでしょうか。私は成功したと思います。EDでの血溜りの周りに現れる赤いやつ、あれは確か夢にいましたよね。だから成功しただろうというわけです、というか思いたい。そうなると夢の世界に点在する血溜りはひょっとすると…。

以上が私の考察です。
他の方々の多くの考察と同様に妄想全開でしたが、ゆめにっきというゲームは説明がなされてない分想像の幅が広がる性格をもっていますし、そこにも面白みがあると改めて感じました。
作品の絵、音楽、設定、システム…それぞれが互いを引き立て全体の雰囲気を作っていると感じましたし、またプレイヤーの能動性が極限まで活かされているという性格も感じました。だからゲームでなくては表現できないという必然性が、ゆめにっきにはあると思います。それに引き換え最近のゲームは……というと説教臭くなるのでやめて置きます(笑)

ちなみに私はチキンハートのせいでほうちょうを手に握っても刺すことは一度もなかったです。だからピクシプで窓付きを検索した時、血と包丁のモチーフが非常に多いことにびっくりしました。こういうプレイヤーによって印象が全然違うのもゆめにっきのみならずゲーム(RPG)の良いところだと思います。
あ、なので赤の王様はニコニコで見ただけで自分では体験したないです。ウボァは攻略サイトを見て故意に出しました。
私的なトラウマナンバー1はデパートのエスカレーターを下ったとこですかね。曲とか人とかいちいち恐かったです。笛の部屋の人とか、トクト君は好きですが。あとは寝違えた時もかなりビビりました。
逆に一番好きなところは魔女になって空を飛ぶところかな。あとテレビの砂嵐みたいなのの先にあるファミコン世界の音楽がすごく好きです。

この辺で終了します。尋常じゃなく長い文読んでくださった方にはもうなんとお礼したらいいか…。
ここがわかりにくい、説明してくれ、とかありましたらコメントでどうぞ。

ではでは。


追記:
ああ、そうだ忘れてた。火星イベントのことを書こうと思っていたのに。
あそこへ行くには確かベッドの中に入る必要があったと思います。いうまでもなくそれは寝ることの象徴ですが、上に記した私の見解ですと夢の窓付きがまた夢を見るというような事態が発生すると思います。
それが意味するところは……これはいろいろ考えたのですが難しいですね。夢の窓付きが見る夢なのだから、現実の窓付きとは全く関係のないシーンなのかもしれない。だから、あそこだけストーリーめいたものがはっきりとあるのかな。とか思ったりしています。そしてもっとも奥深くにいる火星さんと呼ばれるひと。私はやってないのですが、刺すと傷が残るらしいですね、それもここだけの現象だとか。やっぱり夢の世界とは一線を画すイメージがあります。自分の成したことがはっきりと結果として残る。これは現実に通ずるものがあります。それにしては世界観がぶっとんでる。何か想像もつかないような全くの別次元にいるのでは……?
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