since2010.8.5
去年レポートで書いたやつに手直ししてみた。
直接的でないにしろフクシマのことにもつながるところあるんじゃないかと思う。
放射線に恐怖するのはもとっもなことだけれど、もっと恐怖すべき対象が身近にいるんじゃないかな。
『キング・コング』~究極の猿モチーフ~
1.“猿”というモチーフ
ダーウィンの『種の起源』が発表され「人間は猿から進化した」という衝撃の仮説――人間は神が自分に似せて作ったのだから――が世に広まった。そしてまた『種の起源』において主張された自然淘汰説は社会にも応用され、高等な人間である西洋列強国は下等な人間(=人間の進化前のイメージ=猿。具体的にはアフリカ、アジア)を啓蒙するのが正義という社会ダーウィニズムの下で帝国主義は当然のこととして進められた。しかし、下等であり啓蒙されるべき野蛮な人間が反旗を翻し西洋列強に立ち向かい反乱をおこし始めると西洋人たちは焦り始める。このまま自分たちが下等な人間共に侵略されるのではないか、という不安に駆られたのだ。この恐怖・不安から帝国主義ゴシックという一種の文学ジャンルは生まれ、これらの作品においては猿のモチーフが下等・野蛮・退化のイメージをもって数多く登場した。猿によって人間がおかされるという恐怖を描いたのだ。ただしそれの多くは帝国主義に対する反省ではない、と同時に私は考える。ただ単に異質な猿への恐怖を描いたに過ぎない。
2.典型的な“猿”のモチーフ ~『猿の惑星』(1968)における猿~
小説をもとにした映画『猿の惑星』で登場する猿は言語を理解し、知性も発達していて、その上身体能力に優れ、人間を支配している。下等であるはずの猿は進化し、人間は支配されるという構図はまさに帝国主義ゴシックの典型といっていいだろう。
猿文明よりも発達した文明にいた人間である主人公の視点で物語は進行するが、ここで気をつけたいのはこの視点こそが我々視聴者の視点に近いということである。要するに主人公とは現代人であり、我々の代表である。猿たちの顔は人間にしてみれば醜く、彼らの見せるいかにも動物的な興奮状態も我々人間からすると印象が悪い。それゆえ言葉も話せないこの世界の人間の方に味方したくなる。つまり猿と人間の立場は確かに逆転されているかもしれないが、あくまで人間は理性的で美しく、猿は野蛮で醜いのだ。(後に作られた続編においては人間自身の愚かさが描かれていないことはないが)
物理的な力、目に見える権力といった表層においてこそ猿>人間が成り立つが、それに反して精神性といった内面的な話になると実は人間>猿という自負が見てとれる。そしてより視聴者・読者が同情し共感するのは当然内面で猿に上回る人間ということになる。この特徴は他の多くの猿が登場する帝国主義ゴシックに共通する。
この考え方で見ればこれらの物語は、植民地活動という行動をした西洋人が野蛮であったというような“反省”は全くなく、あくまで野蛮な非西洋人(=猿)に逆転されるという屈辱、恐怖を描いたにすぎないと感じるのだ。これが帝国主義ゴシックは帝国主義に対する反省では全くないという主張の所以である。
しかし私は『キング・コング』は例外であったと考える。
3.『キング・コング』
『キング・コング』に登場する猿のモチーフはいうまでもなく、巨大なゴリラのような姿をしたコングのことである。三度にわたりリメイクされたがここでは1933年の初代と2005年の三代目を中心に述べる。1976年版は中点の入らない『キングコング』であり、またDVDも見つからず、記憶があいまいなので軽く触れる程度にする。
(1) 物語前半 ~開始からコング捜索まで~
この時点でのコングは他の物語に登場する猿と違わず下等で野蛮な描写がみられる。初代においては醜い顔つき、粗野で乱暴な仕草、人食い、美女をさらい服を剥ぐなど数々の蛮行を見せる。05年版では顔つきは実際にいるゴリラに近く醜いというイメージは薄まり、また表情豊かで、美女も恐怖とは違う正の感情をコングに抱く。しかし強調すべきは、いずれのコングも人間を圧倒する力をもって敵対していることだ。
これらの描写から見てとれるものとして、その圧倒的な腕力においての猿>人間の関係、理性的か野蛮かという点では人間>猿の関係が見てとれるだろう。つまりは典型的な表層での猿の優越、内面での人間の優越が見てとれる。ここまでのコングは『猿の惑星』の猿と対して変わらない。
(2) 物語の転換 ~コングの補獲~
人間たちは美女を救い出すことに成功するが、ここでコングの捕獲という行動に出る。そして補獲に成功するシーンで猿>人間という物理的な力関係は逆転される。そして重要なのは精神面での人間>猿という関係に疑問符がついてくるということだ。コングを捕獲した時の「みんな億万長者になれるぞ。ブロードウェイに出す。“コング 世界第8の不思議”だ!」というセリフに誰もが人間のエゴを少なからず感じるだろう。
初代が公開された当時、世界恐慌であったことからも金銭にたいする人間の野望の虚しさを感じずにはいられない。そして05年版当時は環境破壊が問題視されており、自然に対する人間の身勝手さをも表していると言えるだろう。コング=猿は初代においては経済効果を狙える被侵略地域を、05年版では自然そのものあるいはその神秘を、象徴しているのだ。
(3) 物語後半 ~見世物小屋のシーンからコングの死まで~
画面は暗転しコングを見世物にしたことによってぼろ儲けする人間の姿がうつされる。そして縛り付けられたコングが現れ、美女をさらい、逃げまどう人々を踏みつぶしながらの脱走、美女を片手にエンパイア・ステート・ビルへと登る……頂上で複葉機に一方的に攻撃され、死亡、落下。初代と05年版に共通する流れである。
この場面で物理的な力が完全に人間>猿であることが強調され、そして視聴者の同情がコングの方へと移動する――初代ではコングが美女以外の人間に対してあまりに残酷なので情が湧くのは本当にラストシーンに限られるかもしれない――。76年版、05年版に関しては美女が完全にゴリラに対して同情あるいは好意を抱き、庇うというシーンがあるので、視聴者のコングへの同情はさらに後押しされるだろう。コングを身勝手にニューヨークに連れてきて、そして殺すという横暴さが人間の理性に疑問を投げかけ、美女のコングに対する感傷や、コングが美女に見せる哀愁の表情がコングの野蛮に疑問を投げかける。この二つの要因によって精神面における猿>人間が達成される!
ここに帝国主義への、そして05年版においては自然環境にたいする帝国主義への“反省”が見られるのだ。猿という下等なものの侵略というイメージではなく、人間そのものの失墜、堕落、野蛮を強調することが『キング・コング』における最大の価値であると私は考える。猿が力をつけて人間に逆転するのではなく、人間が己も気付くことなく堕落し猿に逆転されるということだ。
(4) 最後のシーン ~美女が野獣を殺したんだ(beauty killed the beast)~
ビルの上で死に、落下したコングを見て放たれるセリフ。もちろんセリフの直前に「飛行機ではなく」が入ることは容易に想像できるだろう。
飛行機が殺したのだったらそれは物理的な力における人間の優位を示すに過ぎない。かといって美女が殺したというのが精神面での人間の優位を表すわけでも当然ない。下等で野蛮だと思われていたコングが女の美しさという人間的な感覚に魅了され彼女を愛し、ついにはそれのために命まで落としたという、紛れもないコングのもつ高い精神性を称賛するものだ。この物語のテーマはこのセリフに集約されていると言っていいだろう。
4.恐怖映画としての『キング・コング』の性格まとめ
典型的でないにせよ『キング・コング』は帝国主義ゴシックに他ならない。しかもそれは、高等な人間と下等な猿の表層的な立場逆転というのではなく、精神面における人間の野蛮化、猿の高等化という本質的な逆転であり、ある意味では帝国主義ゴシックを最も衝撃的な形で提供したものだと私は考える。つまりは究極的な形の猿モチーフだったのだ。
そしてゴシック小説(映画)が常にその時代の世相を反映してきたように、初代の『キング・コング』は帝国主義、世界恐慌の影響を受けており、05年版においては同じようなストーリーながらも環境破壊という問題を私たちに“反省”させる。『キング・コング』は単なる映像効果に優れたパニック映画では決してない。
終わり。
長文読んでくれてありがとー。
上記以外の猿モチーフだと、タイムマシンに出てくる名前忘れたけどあの猿っぽい方とか、ジキルとハイドのハイドも捉え方によってはそうだと思う。
直接的でないにしろフクシマのことにもつながるところあるんじゃないかと思う。
放射線に恐怖するのはもとっもなことだけれど、もっと恐怖すべき対象が身近にいるんじゃないかな。
『キング・コング』~究極の猿モチーフ~
1.“猿”というモチーフ
ダーウィンの『種の起源』が発表され「人間は猿から進化した」という衝撃の仮説――人間は神が自分に似せて作ったのだから――が世に広まった。そしてまた『種の起源』において主張された自然淘汰説は社会にも応用され、高等な人間である西洋列強国は下等な人間(=人間の進化前のイメージ=猿。具体的にはアフリカ、アジア)を啓蒙するのが正義という社会ダーウィニズムの下で帝国主義は当然のこととして進められた。しかし、下等であり啓蒙されるべき野蛮な人間が反旗を翻し西洋列強に立ち向かい反乱をおこし始めると西洋人たちは焦り始める。このまま自分たちが下等な人間共に侵略されるのではないか、という不安に駆られたのだ。この恐怖・不安から帝国主義ゴシックという一種の文学ジャンルは生まれ、これらの作品においては猿のモチーフが下等・野蛮・退化のイメージをもって数多く登場した。猿によって人間がおかされるという恐怖を描いたのだ。ただしそれの多くは帝国主義に対する反省ではない、と同時に私は考える。ただ単に異質な猿への恐怖を描いたに過ぎない。
2.典型的な“猿”のモチーフ ~『猿の惑星』(1968)における猿~
小説をもとにした映画『猿の惑星』で登場する猿は言語を理解し、知性も発達していて、その上身体能力に優れ、人間を支配している。下等であるはずの猿は進化し、人間は支配されるという構図はまさに帝国主義ゴシックの典型といっていいだろう。
猿文明よりも発達した文明にいた人間である主人公の視点で物語は進行するが、ここで気をつけたいのはこの視点こそが我々視聴者の視点に近いということである。要するに主人公とは現代人であり、我々の代表である。猿たちの顔は人間にしてみれば醜く、彼らの見せるいかにも動物的な興奮状態も我々人間からすると印象が悪い。それゆえ言葉も話せないこの世界の人間の方に味方したくなる。つまり猿と人間の立場は確かに逆転されているかもしれないが、あくまで人間は理性的で美しく、猿は野蛮で醜いのだ。(後に作られた続編においては人間自身の愚かさが描かれていないことはないが)
物理的な力、目に見える権力といった表層においてこそ猿>人間が成り立つが、それに反して精神性といった内面的な話になると実は人間>猿という自負が見てとれる。そしてより視聴者・読者が同情し共感するのは当然内面で猿に上回る人間ということになる。この特徴は他の多くの猿が登場する帝国主義ゴシックに共通する。
この考え方で見ればこれらの物語は、植民地活動という行動をした西洋人が野蛮であったというような“反省”は全くなく、あくまで野蛮な非西洋人(=猿)に逆転されるという屈辱、恐怖を描いたにすぎないと感じるのだ。これが帝国主義ゴシックは帝国主義に対する反省では全くないという主張の所以である。
しかし私は『キング・コング』は例外であったと考える。
3.『キング・コング』
『キング・コング』に登場する猿のモチーフはいうまでもなく、巨大なゴリラのような姿をしたコングのことである。三度にわたりリメイクされたがここでは1933年の初代と2005年の三代目を中心に述べる。1976年版は中点の入らない『キングコング』であり、またDVDも見つからず、記憶があいまいなので軽く触れる程度にする。
(1) 物語前半 ~開始からコング捜索まで~
この時点でのコングは他の物語に登場する猿と違わず下等で野蛮な描写がみられる。初代においては醜い顔つき、粗野で乱暴な仕草、人食い、美女をさらい服を剥ぐなど数々の蛮行を見せる。05年版では顔つきは実際にいるゴリラに近く醜いというイメージは薄まり、また表情豊かで、美女も恐怖とは違う正の感情をコングに抱く。しかし強調すべきは、いずれのコングも人間を圧倒する力をもって敵対していることだ。
これらの描写から見てとれるものとして、その圧倒的な腕力においての猿>人間の関係、理性的か野蛮かという点では人間>猿の関係が見てとれるだろう。つまりは典型的な表層での猿の優越、内面での人間の優越が見てとれる。ここまでのコングは『猿の惑星』の猿と対して変わらない。
(2) 物語の転換 ~コングの補獲~
人間たちは美女を救い出すことに成功するが、ここでコングの捕獲という行動に出る。そして補獲に成功するシーンで猿>人間という物理的な力関係は逆転される。そして重要なのは精神面での人間>猿という関係に疑問符がついてくるということだ。コングを捕獲した時の「みんな億万長者になれるぞ。ブロードウェイに出す。“コング 世界第8の不思議”だ!」というセリフに誰もが人間のエゴを少なからず感じるだろう。
初代が公開された当時、世界恐慌であったことからも金銭にたいする人間の野望の虚しさを感じずにはいられない。そして05年版当時は環境破壊が問題視されており、自然に対する人間の身勝手さをも表していると言えるだろう。コング=猿は初代においては経済効果を狙える被侵略地域を、05年版では自然そのものあるいはその神秘を、象徴しているのだ。
(3) 物語後半 ~見世物小屋のシーンからコングの死まで~
画面は暗転しコングを見世物にしたことによってぼろ儲けする人間の姿がうつされる。そして縛り付けられたコングが現れ、美女をさらい、逃げまどう人々を踏みつぶしながらの脱走、美女を片手にエンパイア・ステート・ビルへと登る……頂上で複葉機に一方的に攻撃され、死亡、落下。初代と05年版に共通する流れである。
この場面で物理的な力が完全に人間>猿であることが強調され、そして視聴者の同情がコングの方へと移動する――初代ではコングが美女以外の人間に対してあまりに残酷なので情が湧くのは本当にラストシーンに限られるかもしれない――。76年版、05年版に関しては美女が完全にゴリラに対して同情あるいは好意を抱き、庇うというシーンがあるので、視聴者のコングへの同情はさらに後押しされるだろう。コングを身勝手にニューヨークに連れてきて、そして殺すという横暴さが人間の理性に疑問を投げかけ、美女のコングに対する感傷や、コングが美女に見せる哀愁の表情がコングの野蛮に疑問を投げかける。この二つの要因によって精神面における猿>人間が達成される!
ここに帝国主義への、そして05年版においては自然環境にたいする帝国主義への“反省”が見られるのだ。猿という下等なものの侵略というイメージではなく、人間そのものの失墜、堕落、野蛮を強調することが『キング・コング』における最大の価値であると私は考える。猿が力をつけて人間に逆転するのではなく、人間が己も気付くことなく堕落し猿に逆転されるということだ。
(4) 最後のシーン ~美女が野獣を殺したんだ(beauty killed the beast)~
ビルの上で死に、落下したコングを見て放たれるセリフ。もちろんセリフの直前に「飛行機ではなく」が入ることは容易に想像できるだろう。
飛行機が殺したのだったらそれは物理的な力における人間の優位を示すに過ぎない。かといって美女が殺したというのが精神面での人間の優位を表すわけでも当然ない。下等で野蛮だと思われていたコングが女の美しさという人間的な感覚に魅了され彼女を愛し、ついにはそれのために命まで落としたという、紛れもないコングのもつ高い精神性を称賛するものだ。この物語のテーマはこのセリフに集約されていると言っていいだろう。
4.恐怖映画としての『キング・コング』の性格まとめ
典型的でないにせよ『キング・コング』は帝国主義ゴシックに他ならない。しかもそれは、高等な人間と下等な猿の表層的な立場逆転というのではなく、精神面における人間の野蛮化、猿の高等化という本質的な逆転であり、ある意味では帝国主義ゴシックを最も衝撃的な形で提供したものだと私は考える。つまりは究極的な形の猿モチーフだったのだ。
そしてゴシック小説(映画)が常にその時代の世相を反映してきたように、初代の『キング・コング』は帝国主義、世界恐慌の影響を受けており、05年版においては同じようなストーリーながらも環境破壊という問題を私たちに“反省”させる。『キング・コング』は単なる映像効果に優れたパニック映画では決してない。
終わり。
長文読んでくれてありがとー。
上記以外の猿モチーフだと、タイムマシンに出てくる名前忘れたけどあの猿っぽい方とか、ジキルとハイドのハイドも捉え方によってはそうだと思う。
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